仕事は幾つあってもいい!100年時代のビジネスライフvol.10
プレイボーイグループの編集部勤務から
出版プロデューサーほかスラッシュに活躍する久本勢津子氏 Part2
仕事は幾つあってもいい!100年時代のビジネスライフvol.102019.02.04働く
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集英社で著名人たちの本を出版する仕事にも徐々に慣れ、自分の企画を形にすることも覚えた5年目。新プロジェクトに関わらないかという打診があった。華やかさはないものの、学者的な緻密さを要求される部署だった。今であれば非常にやり甲斐のある仕事だと思えただろうが、20代の自分には迷いがあった。
元々、独立という文字が頭にちらついていたこともあり、決断は早かった。当時の池孝晃編集長に相談した時に言われた言葉は「久本クンは生意気だったからなあ」。それから約半年後には千駄ヶ谷三丁目に事務所を開いて、念願の独立生活が始まった。
独立してすぐに某航空会社の広告の仕事が入ってきた。今思えば随分と恵まれたスタートだ。強みは、4年半の集英社の経験で培った文壇文化人や一流のフリーランスの方々などの人脈だった。先輩が言った言葉が印象に残っている。「あなたのためなら仕事をする、と言ってくれる人を何人持てるかが、編集者の腕だよ」。『月刊プレイボーイ』の仕事で出会った山田詠美氏や島田雅彦氏から、小林恭ニ氏や川村毅氏達へと広がり、彼らとの親交も、独立後の仕事を大きく助けてくれた。
しかし、独立直後に大手企業の広告仕事が舞い込んだような“ビギナーズラック”は長くは続かず、数か月後には仕事は“凪”状態となる。怖いもの知らずの20代、フリーランスになれば仕事の波があることも知らなかった。
そんな時、人生のキーパーソンである写真家の故・高橋曻氏が、独立してからも心に掛けてくれた。高橋氏が講談社の雑誌編集者達を紹介してくれたことで、今にいたるまでの講談社との仕事関係に繋がったのだ。
テーマを与えられて、誰に何を語ってもらい、あるいは書いてもらい、写真家やイラストレーターにどのような表現をしてもらうかを任される。
それまで築いた、力のある書き手の方々との人脈が雑誌づくりでも活き、その後更に新しい媒体、プロジェクトで結実していくことになる。
Part3につづく
(文 槇 徳子)