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生活
2018年07月17日

定年後の歩き方・私の場合 vol.3

定年後の歩き方・私の場合 vol.32018.07.17先輩に聞きました


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深野誠さん「大切なのは、そのときやりたいことをやること」

60歳で定年を迎え、余生を過ごすというのは昔の話。平均寿命も延び、人生100年時代。定年後の40年をどう過ごすか。定年後、新しい人生を踏み出した先輩方の生き方を伺った。今回お招きした先輩は、深野誠さん。ソニーの人事部で主に国際人事を担当し、その実績を買われて製薬会社でも手腕をふるってきた深野さん。在職中も退職後も、故・盛田昭夫さんの言葉が常に心に残っているという。

定年後の歩き方・私の場合 vol.2

海外に憧れて大学卒業後はソニーに就職

思い返せば、中学生のころから海外に強い憧れを持っていました。私たちの世代は、海外にすごく興味を持つか、全く持たないか両極端な世代。私の場合は、中学時代に日本人とアメリカ人のハーフの同級生が年度途中から入学してきたことで、アメリカに対してすごく興味を持つようになりました。

彼の家で、日本でリリース前のビートルズを聞かせてもらったのが、すごく衝撃的でした。そんな影響もあって、中学時代はFEN(Far East Network/現在のAmerican Forces Network)で、毎週『ビルボードHOT100』の発表を聞いては、一生懸命100曲の曲名をカタカナで書き取ったり、親に頼んで個人的にアメリカ人の人に英語を習わせてもらったりしていました。

そのとき将来は絶対に海外で働くぞと思った気持ちは高校から大学までずっと続いていて、大学4年のときの就職活動では、商社から内定をいただきました。

ほぼ商社に行こうと思っていたときに同級生に「ソニーって面白い会社があるみたいなんだけど、説明会に一緒に行ってみない?」と誘われて行ってみると、商社とは全然雰囲気が違う変な会社で(笑)。

大学時代は国際政治を学んでいたので、卒論のテーマは「核戦略」。そのための関連書籍を4~500冊ぐらい読んでいました。面接官には、この話は理解できないだろうなと思いながら話すと、逆に相手が質問をしてきたり、意見を言ってきたり。1対1で2時間ぐらいやりとりをするうちに、こんな面白い面接者がいるんだと、何となく会社自体にも興味を持ってしまい、最終的には商社をお断りして「ソニーに行きます」と返事をしていました。

ソニーに入社して最初に配属されたのが、当時花形のテレビ事業本部。生産と販売の製販会議の調整担当をしました。1年ほどして、アメリカのサンディエゴにある工場の追加拡張工事をするプロジェクトに参加。「いよいよアメリカに駐在?」と期待するものの、アメリカ出張の機会もなく、2年ほど過ぎたころに人事部に異動になりました。

多くの人に会う中で仕事の面白さに開眼

採用担当として楽しく仕事はしていましたが、いつまでたっても海外駐在の機会がなく、このころは割ともんもんとしていました。

さらにその後は、厚木工場の人事に異動。工場長に、他の仕事はしなくてもいいから、この工場の6,000人と、とにかく会ってくれと言われ、インタビューの機会を作り会い始めました。途中でこのペースだと終わらないと気が付き、工場長に頼み、夜10人ぐらいと宴会を毎日やることにしました。

そんな生活を3年間続け4,000人ぐらいに会ったころ、工場長が「海外に推薦しておいたから」と、ヨーロッパ人事代表という肩書をもらいロンドンに異動になりました。ちょうど入社10年ぐらいのときです。

ヨーロッパにある工場や販売所を含めた事業所すべての、日本人ではなくてローカルの人事をサポートするようにと言われました。当時あった23カ所をぐるぐる回りながらいろいろ意見を聞いたりアドバイスをしたり、本社とのつなぎをしているうちに、やっと人事も面白いかもしれないと思うようになりました。

そこで、本社に対して国際人事会議をやりましょうと提案して企画をし、サンディエゴで、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの人たちで1回目の国際人事会議というのを1985年に開きました。たぶんこういった取り組みは、日本の企業では初めてだったと思います。

実は、盛田昭夫が入社式の日に語った話の中で、「今日から皆さんは自分の好きなことを思う存分やってください。皆さんの中から10年に一つ世界初が生まれればソニーは永遠に続きます」という話がありました。その言葉通り、当時のソニーは「好きなこと」をやらせてもらえる会社だったと思います。

その後1987年に日本に帰国。日本で日本企業初の国際人事部の立ち上げをしました。

製薬会社に転職し、新しい人事制度を導入

海外営業の人事を8年、途中3年ほど、ソニー、フジテレビ、ソフトバンク、ニューズコーポレーションが25%ずつ出資し設立したスカパーの人事責任者になり、出資の意図や、得意先の違う会社を一つにまとめ、ソニーへ戻りました。それは90年代の終わりにさしかかったアナログからデジタルへという大転換点で、いま一つ変革が進まず、会社の景気が少しずつ悪くなりはじめたころでした。

人事担当の役員が交代になり、はやりの破壊と創造という言葉の元、人事制度の見直しと共に徹底した成果主義の導入が決まって行きました。今まで自分が採用担当のときに採用してきた八方破れの人たちには、全く合わない制度への変更でした。これではソニー文化が変わってしまうと、人事の中で推進派の役員の方々に対して抵抗していました。そんなとき、ちょうどヘッドハンターに誘われ、グラクソ・スミスクライン(以下GSK)という製薬メーカーの人事の責任者と会食をしたのです。

グラクソ・スミスクラインという名前も知らなかったのですが、その責任者の考え方と自分の人事に対する考え方がすごく一致していて、2001年に英国本社採用で入社し、日本の人事のヘッドになりました。そこでもソニー時代と同様、まずは2年かけて4,000人に会いました。

GSKに移ってからも、ソニー時代の経験を生かしてさまざまな取り組みを推し進めました。例えば、メーカーではごく当たり前にある社員からの「提案制度」を始めたのもそのひとつです。

日本のテレビでは、病院の薬はCMをしてはいけないことになっていると理解されていました。ルールを精緻に読むと「製品名を言わなければいい」と現場の若手社員から提案が出て、最後に社名とHPのURLだけを入れるCMを作りました。

これが大成功で、初年度でそのサイトへのアクセス数が400万を超える話題CMとなりました。以降、他社でも製品名を言わないCMがいろいろ流れるようになりました。

他にも、ソニーで人事の仕事をしていたときに、新しい人事制度を作りたいというのが、頭の中に絵としてはありました。ソニーでは実現することができませんでしたが、それをGSKで実現することもできました。実はGSKに入社直後、本社のピエール・ガーニエ社長と話をする機会があり、彼に「GSKという会社をソニーみたいにしたいからアドバイスをほしい」と言われていたのです。その後も社長からはアドバイスを求められたり、日本に来た際には食事をしたり。結果、本社の他の人たちにも私の意見に耳を傾けてもらうことができるようになりました。ソニー時代の実績が認められていたのだと思います。

GSKでは面白く仕事を進められ、日本でも改革ができ、本社にも影響を与えることができたと思っています。

定年後は、会社を立ち上げ勉強会を開催

GSKは、制度上60歳で退職。実際には61歳までいて、2012年に退職。その後、多方面からいろいろとオファーはいただいたものの、「仕事なんかするものか」と思って妻と一緒にあちこち旅行しました。

ところが2カ月に1回程度旅行するという生活は、2年ほどで飽きてしまったのです。もちろん世界各地の素晴らしいもの、面白いものを見てはいるのですが、自分がだんだんバカになっていくみたいな感覚になり、これはまずいと(笑)。

そこで自分で看板を上げて何かやってみようと、2014年5月7日、ソニーの創立記念日に「MF consulting」を立ち上げました。

現在日本の人事は、海外の人事制度の模倣ばかりをしていて、それが日本の人事をダメにしていると感じているところがありました。そのため、日本の本来の良さに自信を持ち、人事の人たちはビジネスのセンスをもっと身に付けることが必要だと思いました。そこで、日本のビジネスリーダーの皆さんが、その日、何を考え、決断し、行動したかということを学ぶ勉強会を始めたのです。その会合名を「THE DAY」と名づけました。 

1回目は、特に親しかった友人で、当時パナソニックの副社長をしていた山田喜彦氏にお願いしました。

彼はレッツノートに関わり、レッツノートを現在のような立ち位置に引き上げた当事者です。値段では一切勝負しないというやり方で、アメリカでも日本でもレッツノートを成功させパナソニックアメリカの会長になり、日本の役員として戻った後、数々の改革を実行し副社長となりました。

他にも、リクシルの副社長でM&Aの担当をしていた筒井高志氏に来てもらったり、ワールドカップやオリンピックを日本でもビジネスに仕上げた当時慶応大学教授(元・電通)の海老塚修氏に話を伺ったりしました。ライブドアでホリエモンが逮捕されたときに社長をやっていた平松庚三氏に来てもらったこともあります。いずれの人たちにも共通したのは、流れに乗ったのではなく、流れを作ってきたことです。

「人事」の仕事はビジネスの根源に関わること

人事に関わる人には、「自分たちは自社のビジネスに深く関わっている」いうことをもっと意識してもらいたいと思っています。ビジネスを動かすのは人。どうやってこの人たちのやる気を引き出すのか、そのために「人事」があるのだということです。

近年、経営者の多くは、単年度の12カ月で利益を出すことがビジネスの成功だと思うようになっていて、財務の人がそれを計算し数値化します。その結果、利益創出のため、人が1,000人多すぎるとなると、それが人事に下りてきて、「1,000人のリストラをせよ」となるわけです。

しかし、人事はリストラよりも全員にチャンスを作ることのほうが重要です。どうやって一人ひとりの良さを引き出すか、これこそが人事の責任だと思っています。

今の制度は欧米の影響を強く受けていて、「12カ月に、全社員が1個の成果を出せ」といった感じです。成果を出すと給料もポジションも上がり、成果が上がらないと給与は上がらず場合によってはポジションも下がるというもの。さらに、下のほうの5パーセントはリストラ対象にもなってしまいます。

でも、ここはアメリカではなく日本です。そういうビジネスではなく、みんなで一致団結して、みんなの良さを引き出すことのほうが重要だということを、人事の人に理解してもらいたい。それが、私が「MF consulting」を立ち上げた理由でもあります。

ソニー時代に、盛田さんが会社の就業規則を見て「なんでこんなにたくさん規則があるんだ」というので、「法律で最低限必要なんです」と答えると、「じゃあ法律の最低限以上は作るな」と言ったことがありました。

盛田さんは常に「社員がやりたいと思ったらやらせてやれ。そこから新しいものが誕生する」というのが、会社経営のベースにある人でしたし、その発想力が当時のソニーのパワーや魅力になっていたと思います。予算会議などでは、前年度の失策を追及されることはなかったし、人事も社員に反省を求めるよりは次に何をするかを聞いていました。

私も、いまだに盛田さんのいろんな発言がすごく染み付いていて、どこにいても、その発想で議論しているという気がしています。

「定年後」ではなく、今すぐやりたいことを

「定年後」に話を戻すと、私は、実は年齢というのはそんなに関係がないことで、自分がそのときにやりたいと思ったことを、まず行動してみることが重要だと思っています。

それが30代ぐらいなら会社の中で評価されればいいし、評価されなかったら自分でやりたいときにまたやればいいのです。

60歳前後になって、いきなり「俺は何をやりたいんだろう?」と考え始めても遅いし、そうなってからでは何をするにも無理があります。そのため、いつでも今日やりたいと思うことは、すぐ始めてみる、という癖を常に付けている必要があると思います。

仕事上でのことは、多くの会社にルールや制度があるので、さほど自由にはできないかもしれません。それなら、説得するための資料をちゃんと作って「やりましょう」と言うことも重要。もちろんつぶされることはあるでしょうが、そういう経験を積むことによって、老後も何かやってみようと思うことができるのではないでしょうか。

いつも好奇心を持って、何か興味持ったことにちょっと入り込んで、手を付けてみる。これがたぶん、いつまでも自分自身を奮い立たせておく秘訣だと思います。


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深野誠さんのプロフィール
大学卒業後、商社の内定を辞退しソニーに就職。人事の仕事に幅広く携わった後、製薬会社に転職。定年後は、「MF consulting」を立ち上げ、人事向けのビジネス勉強会などを開催している。

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