1. HOME
  2. ライブラリ
  3. スーパーシニア伊能忠敬に学ぶライフデザイン
生活
2018年06月30日

スーパーシニア伊能忠敬に学ぶライフデザイン

スーパーシニア伊能忠敬に学ぶライフデザイン 2018.07.0150代の歩き方


[top_taglist]

 高齢化社会の進展とともに、「中高年の星」としてがぜん注目されるようになった歴史上の人物がいます。江戸後期、長い歳月をかけて全国を歩き、詳細な日本地図を作り上げたことで知られる人物、伊能忠敬です。没後200年、そんな昔の人物がなぜこの時代に注目されているのか。そして、彼の人生から、現代を生きる私たちは何を学ぶことができるのか。その考察に、少しの間、お付き合いいただければと思います。

ご存じですか?伊能忠敬の生涯

 伊能忠敬は、1745年に上総国小関村、現在の千葉県九十九里町の名主の家(小関家)に生まれました。幼少期に母が他界し、それ以降、不遇な少年期を過ごしたとされますが、詳細はよく分かっていません。分かっているのは、17歳のときに、下総国佐原村(現在の千葉県香取市)の伊能家に入り婿したことです。伊能家は代々名主をつとめる名家であり、酒造業や運送業などを営む、なかなか大きな商家でもあったようです。

 忠敬の前半生は、伊能家の主としての人生です。商人としての才覚は高かったようで、物流網や情報網を整備することで、家業を隆盛に導いたとされています。また、36歳のときには佐原村の名主となり、利根川の洪水や浅間山の噴火による飢饉など、相次ぐ災厄に見舞われた村のために、公共事業や窮民救済に力を注いだと伝えられています。

 しかし、ここまでは序盤戦。ここから先が、一般に知られている忠敬の人生です。

 1794年、49歳のとき、忠敬は家督を長男の景敬に譲って隠居。その翌年、江戸深川に居を構え、年来の夢であった天文学を学ぶため、幕府天文方高橋至時に弟子入りします。このとき、至時はまだ32歳。20歳近く年下の人間に弟子入りしたことになります。

 詳しい経緯は省略しますが、それから数年後の1800年、忠敬は、幕府の許可を得て、蝦夷地(北海道)南部の測量に出発することになります。それを第1次とし、1816年の第10次測量までの17年間、忠敬の「測量人生」は続き、少しずつ日本全体の地図を作り上げていきました。1818年(享年73歳)までに歩いた距離は、35,000キロメートルに達するとされています。

 没後の1821年、志を受け継いだ者たちによって『大日本沿海輿地全図』はついに完成に至り、幕府に提出されました。

伊能忠敬が「中高年の星」と呼ばれる理由

 忠敬が「中高年の星」として注目される理由は、その生涯を知れば、すぐに理解できます。50歳から、それまでとはまったく異質な人生を始めたこと。そして「第2の人生」において、想像を絶する難事業に挑んだこと。この2点でしょう。

 江戸時代の50歳は、今の50歳とは違います。平均寿命などを勘案すれば、「高齢者」といって差し支えのない年齢。そんな年齢になってから未知の世界に飛び込み、さらにその先で心身を酷使する難事業に、自分から飛び込んでいく。普通に考えたらありえない「スーパーシニア」であり、「中高年の星」としての要件を十分に満たしています。

 また、長寿化が進み、ファースト・キャリアだけでしのぐことが難しくなった現代の時代状況も、人気を後押ししているのではないでしょうか。高齢で活躍した歴史上の人物は少なからずいます。しかし、たいていはファースト・キャリアの開花期が高齢であったというものであり、忠敬のような例はほとんど見かけません。まさに「オンリーワンの価値」を持った、稀有な歴史的人物として、脚光を浴びることになったのです。

「子どもじみたピュアな探究心」が彼の原動力

 忠敬の魅力は分かりました。では私たちは、彼の生き方から何を学べばいいのでしょうか。

 もちろん「年齢にとらわれずに挑戦することの大切さ」といったことを、彼の人生からくみ取ることはできますし、それはそれで正しいでしょう。しかし、そんなメッセージは世の中にあふれていて、今更何らかの有効性があるとも思えません。

 私たちが真に学ばねばならないのは、彼のその「挑戦的な人生」を可能にした、「根源的なもの」は何だったのかという点です。それが見えたとき、私たちは初めて、時空を超えた「学び」を、彼から得ることができるはずです。では、それは何なのでしょうか。

 こんなエピソードがあります。

 忠敬が至時に入門して少したった頃のこと。年下の師の教えに刺激を受けた忠敬は、地球の大きさを知るべく、緯度1度の長さを測りたいという思いを抱くようになります。

 その思いを抱いたとき、彼が真っ先にしたのは、深川の自宅から、北にある暦局(天文方の役所)まで、歩いてその距離を測り、緯度の差を測るというものでした。その当時、天文方は浅草あたりにあったようなので、ほとんど目と鼻の先。そんな近距離で正しい測量ができるはずもなく、師匠の至時からは、報告したその場でダメ出しをされることとなりました…。

 たわいもない話ですが、これほど忠敬らしいエピソードもないような気がします。そこにあるのは、「子どもじみた」とさえいえそうな探究心。天文学の権威機関で学ぶ、50歳を過ぎた「老人(しかも元は優秀な商人)」なのに、何だか夏休みの自由研究に取り組む小学生のような、ピュアな探究心をそこに感じてしまうのです。

 考えてみれば、隠居してすぐに江戸に出てきたことも、本人としては、「だって勉強したいんだもん」ということだったのでしょう。「分別ある人」から見れば、子どもじみた行動だったかも知れません。しかし、本人にはごく自然な選択だったのではないでしょうか。

今学ぶべきは「年齢にとらわれず挑戦すること」

 もちろん探究心だけであんな偉業が成し遂げられるわけがありません。その一方に「リアリストとしての力量」がなければ、たぶん何もうまくいかなかったはずです。

 忠敬の後半生のチャレンジは、前半生の商人としての成功に支えられてのものでした。それがなければ堂々と天文学を学ぶことはできなかったし、蝦夷地に赴くこともできなかったでしょう(費用のかなりの部分は私費であったからです)。そうした商人としての成功は、合理的思考などの「リアリストとしての力量」なくして不可能であり、それこそが、忠敬の偉業を根底で支えたものであることは、疑いようもありません。

 また、測量の旅にしても、事前に膨大な準備をし、訪問地で発生する多種多様なトラブルに対処して、初めて成し遂げられるのです。それこそ「超リアリスト」以外には実現不可能だったはずです。忠敬には、間違いなくその力量があったといえます。

 「子どもじみた探究心」と「リアリストとしての力量」をともに持つこと。言い換えれば、コドモとオトナを脳内で共存させるということです。普通に考えれば難しいことですが、その両立を実現せずに、「年齢にとらわれずに挑戦する」ことなど、できるはずはないと考えます。200年の時の向こうに、私たちが見いだすべき「学び」とは、たぶんそういうことなのではないでしょうか。

[taglist]

ページトップに戻る