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生活
2018年06月30日

小島貴子スペシャルインタビュー(第1回前編)

元西武ライオンズ 石毛宏典氏 vol.12018.07.01先輩に聞きました


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元西武ライオンズ 石毛宏典氏 ~引退後の自分を助けたのは「仲間」と「素直さ」~
小島貴子スペシャルインタビュー

第一線で活躍し、一線を退いた後も精力的に活動を続ける次世代シニアに、東洋大学准教授の小島貴子がインタビューする特集。

一回目のゲストは、元西武ライオンズの石毛宏典氏です。チーム優勝の立役者として、その名を全国に轟かせた石毛氏が現役引退したのは40歳のとき。従来の野球人とは異なる石毛氏オリジナルのセカンドキャリアについてフォーカスしていきます。

石毛宏典氏

現役引退後、アメリカへコーチ留学

小島

これまでは定年後というと、老後あるいは余生といった概念でしたが、今は定年後もまだまだ現役という考え方が広がってきています。石毛さんは現在61歳。野球選手引退後も、あちこちでご活躍されて“生涯現役”を実践されていますが、そもそも現役引退はいつだったのでしょうか。

石毛

40歳でしたね。我々の業界は自分が「やりたい」と言っても球団から「もうお前はいらない」と言われたら、そこで終わりなんです。でも逆に自分で「引退します」と宣言できる業界でもある。僕の場合、自分の意思で「引退させていただきます」と区切りをつけられたのは、ある意味、幸せな野球人生だったのかなと思うんですよね。

小島

現役が終わって22年。プロ野球を引退されてからも野球に関わり、四国にアイランドリーグという事業を立ち上げられますが、その経緯を教えていただけますか。

石毛

現役引退後、自分が今までやってきた野球、ベースボールが生まれた土壌を知らないと野球は語れないなと、1年間、アメリカにコーチ留学に行きました。そこでメジャーリーグ、マイナーリーグ、それとはまた別に独立リーグがあることを知った。

その独立リーグに日本の若者が、たくさんチャレンジしに来ていたんです。お金にも言葉にも苦労している。けれども野球を続けたいという若者の真摯な姿があったものですから、こういう若者を日本で受け止められる環境があればいいなと漠然と思いながら帰ってきたんですよ。

そのときはまだ本気で、それが実現するとは思っておらず、自分の中では現役を終えて、評論、解説をして、アメリカに行って、いずれは監督をしてみたいという思いがあった。それで実際に二軍監督をやらせていただき、一軍監督をやらせていただいた。というところで、口幅ったい言い方ですが、お世話になった野球界に今の俺に何ができるんだろう、と独立リーグの構想を現実的に考え始めたんです。

あぶく銭として残った契約金で起業

小島

独立リーグを立ち上げるというのは、今の言葉で言うとベンチャー企業を作るということですよね。経営ですよね。それも一から石毛さんがされたわけですか。

石毛

野球のことしか知らない人間が、こんな野球事業を立ち上げるというのは、全くとんちんかんな話なわけです。ですから、その構想を思い立って証券マンの親友に話したんです。そうしたら「発想がお前らしくていいな」となって、その親友の部下を紹介してくれた。M&Aなんかをやっている人間でしたが、その彼に構想を話したら「面白いです。ぜひやりたいです」と言ってくれて、会社を辞めて僕のもとに来たんです。

そのタイミングがいいのか悪いのかわかりませんが、当時オリックスの監督を3年契約だったのが、1年4カ月でクビになったので、残りの1年8カ月分の契約金があぶく銭として残ったんです。その金を原資にして会社を興して、それでその彼にも給料が払えました。

小島

事業を立ち上げることに奥様は反対されませんでしたか? 私が奥さんなら辞めてっていいますよ(笑)。男の人はあぶく銭で新しいことを挑戦してみたいと思うかもしれませんが、奥さんからすると、それは未来の大事なお金だからってなりませんか?

石毛

おっしゃるとおり、女房が「あなた、一言いいですか」と。「男は夢だけで飯が食えるかもしれませんが、女子どもは夢で飯が食えませんから。覚えていてくださいね」ってピシャリ(笑)。確かに当時は住宅ローンを抱えていたし、子どももまだ小さかった。それでも、これまで野球界にいて、優勝して、ご褒美旅行でいろいろな思い出を作れて、仲間もふえて、高収入も得て、いろいろな恩恵を受けた。そんな野球界に対して恩返しをしたい、そういうスタンスが自分の中にあったので・・・。自分の生活や女房、子どもの生活がどうというより、今の日本の野球界に絶対に必要と思っていました。事業、経営のことがわからないけれど、わからないからこそ、やってしまえと勢いだけでいきました。

助けられたのは野球以外の仲間と知名度

小島

一般企業で働いていた人たちは、定年後の道は二つしかないんですよね。一つは雇用延長という形で自分の会社に関連するところでそのまま働く。もう一つは、やはり自分の働いていたことと近いところを探す。石毛さんはサラリーマン的にいえば、過去にやったことを掘り下げて、さらにベンチャー的に経営までやったということですね。

今、振り返ってみて、一般的な企業でいえば定年後のキャリアというものを自分で作られたときに、自分にとって何が一番助かりましたか? 人とか知識とかいろいろあると思いますが。

石毛

僕は野球の友だちもいますが、野球以外の友だちもいました。野球以外の事業的な構想や新規事業については、こちらの仲間がいろいろアドバイスをくれて、このあたりがありがたかったかな。

31、32歳で給料が1億円ぐらいになったときでしたかね。僕が最初にプロ野球に入ったときの最初の監督である根本陸夫氏に「一般企業に勤めている野球以外の仲間と飯を食え」と言われたんです。「お前ら野球人は高収入を得て、ぬくぬく育って、世間にどんな風が吹いているかわかんねえだろ。お前の仲間は現時点を生きているから、そういう人間と会って話をして来い」って。そんなおやじのような小言の一言二言が、すっと自分の中に入ったんですね。それからは野球以外の仲間とよく付き合うようになりました。そして実際、40歳を過ぎて引退したときに、その頃に交流を深めた仲間たちがいろいろな手助けをしてくれたわけです。

もう一つは、四国に行って全く知らない人から「あの石毛さんですか」と言ってもらうことが多かった。それは、やはり一時期、野球バカになってやって、それで数字が上がり、給料が上がり、チームが優勝して、「西武ライオンズ・石毛」という名前を全国区で多少知らしめた。その知名度にも助けられたんだなと思います。野球界の仲間も四国にたくさんいましたし、そういった人脈から、いろいろな人を紹介してもらって、四国アイランドリーグが立ち上がっていったんです。

初対面の相手に、いきなり二流呼ばわり

小島

石毛さんほどの著名人になると、ややもすると人に対する接し方が変わってくるのがふつうです。サラリーマンの世界でいうと、社長とか取締役とか、名刺で仕事ができるようになった人というのは、若い人とか関係ない人と付き合うことをしそうでしない。でも石毛さんは業界外の人脈がすごくよくつながっていたんですね。

石毛

僕は職人的な意識がすごく強いので、あまりこびるとかへつらうといったことをするタイプではないんです。「俺は腕一本で飯を食ってきた、自分の言いたいことは言うよ」って。だけど新しい事業は知らないことですよね。野球に対しては譲れないことはあっても、知らないことに対しては「あ、そういうことなんですね」って素直に聞き入れる素地はあったのかなと思います。

小島

知ったかぶりをしないということですかね。

石毛

そうですね。野球界でも、こいつには勝てねえなと思ったら「すごいね、お前」って案外、素直に認めるところがあるんです。

ちょうど1億円もらっていた頃、先ほどの根本陸夫氏と同じように、人生の転機となるようなメッセージをくれた人がいたんです。その方はアパレル会社のオーナー社長で、ある野球界の先輩のパーティーで出会った。「あんたが石毛さんかいな」って声をかけられて「はい」と言ったら、「あんたのふるまいをずっと見てきたけれど、野球人としては一流かもしれないけれど、社会人としては二流だ」って言われたんです。面と向かって初対面の人に。

小島

知らない人だったんですね。

石毛

そう、知らない人。なんや、このおっさんと思って「すまんけどね、俺はあんたに飯を食わせてもらってねえ。自分で稼いでいるから、あんたに二流って言われる筋合いはねえわ」と言って、けんかになりそうだったんですが、その後も“二流”という言葉が頭にこびりついて離れない。バラ色のシーズンオフにゴルフをやっても、旅行に出かけても楽しくないわけですよ。ずっと野球しかやってこなくて、いつも「うまくなりたい」、それしか考えていなかった。確かに社会のことは何も知らねえわなって。

小島

何が理由だったんでしょうね。

石毛

若造が1億円稼いで肩で風を切った、という気は僕にはなかったのですが、その人の目には横柄なものにうつったのかもしれません。今考えると、東尾さんや田淵さん、森さんといった先輩方に対しても、尊大な態度だったのかな。

小島

二流と言われてカチンときたけれど、頭の中にすごく残っていたんですね。

石毛

そうなんですよ。そこが何かに気づくターニングポイントというか、うまく受け止められるタイミングだったのかもしれません。

一流とは、いちずに上を目指す人間

小島

では石毛さんは今、61歳になって“一流の人”とは、どういう人だと思いますか?

石毛

野球にたとえると、二流の人は振り返ったときに「あの頃、もっとやっておけばよかった」と後悔の念がある。でも一流の人は「あの頃はよく練習したな」と思うぐらい。そのときは取りあえずうまくなりたい、職人としてもっとスキルアップしたい、と求道者のような人間が一流といえるのではないかと思います。僕も24時間365日、野球のことしか考えていなかったですね。

小島

そんなに野球のことを考えていたのに、40歳を過ぎてアイランドリーグを作り、50歳ぐらいのときにまたそこから離れるんですよね。そのときは次に何かやりたいということがあったのですか。

石毛

いやいや、僕の中では四国チームからスタートして、将来的には地方都市にプロのマイナースポーツを作りたいなという思いがあった。ただ、いかんせん経営や事業をかじ取りしてくれる参謀のような存在がおらず、泣く泣く経営を離れたのです。

小島

それでも次のことを考えなくちゃいけないですよね。50歳なんて、まだまだこれから・・・。

石毛

そうですね。ただ野球には広く浅く関わっていたので、評論や解説の仕事はありました。あと、そのつど生活を支えていたのは講演活動ですね。いろいろな講演依頼があって、自分の体験談をしゃべってきましたが、なんで世間の人ってこんな自分の体験談を熱く聞き入れてくれるんだろうなと不思議で。野球を教えるのはプロでも、人の前で話をするのはプロじゃないんで。よくわからんですよ、俺には。

小島

石毛さんの講演会を聞いた社長が、ものすごくよかったって言っていましたよ。そうだろうなと思います。話が面白いし、やっぱり正直だから。

vol.2へつづく


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石毛宏典

石毛 宏典
株式会社石毛企画代表取締役
1956年生まれ。81年にドラフト1位指名を受け、西武ライオンズに入団。96年に現役引退後は、アメリカにコーチ留学、ダイエーの二軍監督、オックス・ブルーウエーブの監督に就任。04年、株式会社IBLJ代表取締役に就任し、四国アイランドリーグを設立。07年から石毛野球塾始動。現在は野球教室や講演活動のほか、城西国際大学の客員教授も務める。
小島貴子

小島 貴子
東洋大学理工学部生体医工学科 准教授
1958年生まれ。埼玉県庁職業訓練指導員、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任准教授、東洋大学経営学部経営学科准教授などを経て、現在に至る。多数の企業で採用・人材のコンサルタントおよびプログラム作成と講師を務める。多様性キャリア研究所所長。株式会社Ageless社外取締役。『女50歳からの100歳人生の生き方』(さくら舎)など著書多数。

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